遠友夜話6 新渡戸の平等主義

遠友夜話, その他

「日本近代教育史の中で、彼の平等主義哲学と民主主義的教育実践は高く評価されなければならない。」前回、ネットで読んだと紹介した放送教育センター研究紀要に寄せた加藤秀俊氏の「新渡戸稲造と大学解放」の英文要約の一部である。新渡戸の平民主義から説き起こし、その実践として、遠友夜学校開設があり、「実業の日本」への通俗エッセイの連載があり、「我輩は専門センスは教えない。コモンセンスを教える」という言葉があり、柳田邦男に影響を与えた「地方学」があるという。加藤氏はこの論文で「札幌遠友夜学校」について詳しく述べ、それは新渡戸の平民主義、平等主義と、大学開放の思想が貫かれた、自由な学問の公開思想の一つの現れであったとしている。

この遠友夜学校に関する記述の中に、遠友夜学校の校名の由来に関して新渡戸の記述:「“有朋自遠方来不亦楽”この句の意味は国も名も言葉もわからない人、どこの人ともいわれぬ人がやってきても、会って話してみるとなんとなくわかる。そのような人は名を知らず国を知らず友心と心が合えばこれ即ち友達である。年齢が違っても、位置が違っても、一人は高い役人でも、一人は偉い学者でも、金持ちでも、それはたいしたことではない。相合って金持ちだとていばらぬ。何となく気持ちが好い。こういう人に会うと嬉しい。人間の楽しみは何と言っても気の合う人に会うことである。この意味を孔子が“有朋自遠方来不亦楽”といったのだ」を引用して、加藤は、「ここにあるのもまた新渡戸の平民主義、あるいは徹底した平等主義というものであろう。彼にとって、教師も生徒も友であり、知識人と素朴な学習者も「友」であった。「気の合う人に会うこと」これが「遠友」という人間の絆の本質なのである。」と述べている。私はこの文章を漫然と遠友夜学校の命名の由来としか読んでいなかったが、確かに、新渡戸はこの文章の中で地位身分貧富教育の差はたいしたことではない、人間同士が素で触れ合うことが楽しいのだということも言っている。平等主義そのものである。加藤氏のこの指摘は私にとって、目から鱗であったわけだが、今回話したいのはこのことではない。

新渡戸の平等主義について、彼は続けて、「その思想の源泉は一体どこにあったのであろうか。クラークから、そしてアメリカ留学の経験から得たキリスト教的な慈善の精神だったというのも一つの解釈である。」が、その側面よりも「学問をすべての人々の手に与えようという趣旨で始められた夜学校の精神は、どちらかと言えば、福沢諭吉の平等主義教育論を実際に増幅した一つの実験であったかのように思われる。新渡戸の少年時代の愛読書の一つが『学問のすゝめ』であったことからもそのことは窺われる」と考察している。

既に以前の遠友夜話で述べたように、福沢諭吉は「学問のすゝめ」で示した平等思想にもかかわらず、後に「最も恐るべきは 貧にして智あるものなり」と述べているように、そして、彼の設立したエリートのための学校、慶應義塾からも窺われるように、決して平等主義者ではない。また、「学問のすゝめ」は日本の人口が3千5百万人の時代に340万部も売れた超ベストセラーである。少年時代に新渡戸が読んでいても特筆すべきことではない。その上で、少年新渡戸が本当に「学問のすゝめ」の平等主義に強い影響を受け、その実践を遠友夜学校に結実させたとするならば、彼が遠友夜学校生徒たちに与えた言葉、「学問より実行」は「学問のすゝめ」の平等主義を一向に実行しないばかりかそれを否定するような言動に傾く福沢に対する批判も内包していたのかもしれない。

私はここで、新渡戸の平等主義の源泉に加藤の指摘した「キリスト教的な慈善の精神」とは別の意味でのクラークの影響を見る。それは、クラークが彼の通った高校、ウイリストン・セミナリーの創設者で、彼の妻の養父であるウイリストンの思想に影響された平等主義である。ウイリストンは彼のくるみボタン縫製工場で働く労働者やその子弟にも教育が必要であるとしてウイリストン・セミナリーを創設した。クラークはそこで学び、平等思想を自然と身に付けた。また、クラークは医者の息子ではあるが生活は豊かではなかった。学資に困窮することもあった。こうした境遇と影響がクラークの人間形成期にあり、彼が実質的に設立したマサチュセッツ農科大学の平等主義思想の基本となっている。

「労働者の子弟にも高等教育が必要である」とするウイリストンの平等主義の思想は、「農家の子弟にも大学教育が必要である」というクラークの主張と一致する。そして、労働青年がよく読む「実業の日本」にしばしば新渡戸が通俗エッセイを投稿することに対して与えられた批判に「我々は少なくとも学問をし、何事かを研究したのである。研究したと云うのであったならば、それを一人でも多くの人に頒ってやるのが吾々国民としての義務である。工場で働いていて十分に学校に行けないような気の毒な人たちも読んでいるということである。そういう人たちを正しく導き、正しく教えて行くということが、国家のやらなければならない仕事であり、少しでも本を余計に読んだ吾々の当然果たさなければならない使命じゃないか」と答えた新渡戸の思想にも通ずる。私はここに、ウイリストン〜クラーク〜新渡戸へと流れる精神のリレーを見ることができると考える。

クラークの平等主義と弱者の側に軸足を置く思想が彼を奴隷解放のためにと南北戦争への出征に向かわせた原動力であろう。そして、彼の平等主義思想はマサチュセッツ農科大学と札幌農学校精神の中心思想となった。「札幌は私の精神的誕生地である」という新渡戸はこの思想に大きな影響を受けたことは間違いない。遠友夜学校における実践も新渡戸を介してクラークの平等主義と弱者に軸足を置く思想の影響が流れているのではなかろうか。

ここで、クラークの平等思想に言及している”Cultivation of the Higher Self: William Smith Clark and Agricultural Education”(自己啓発:ウイリアム・スミス・クラークと農業教育)という論文を見てみよう。これはPatrick T. J. BrowneがHistorical Journal of Massachusetts誌に2008年に発表したもので、前回述べたように、腰痛で何もできない時にネットの中を彷徨い、たまたま見つけたもう一つの論文である。論文の中で彼は「クラークは2つの小さな農学校の基を築いた。その双方ともに、大学は平等主義と信仰に基づく道徳主義を中心に据えた基盤の上に設立されるべきものであるというクラークの信念が貫かれていた」と述べている。2つの学校とは、マサチュセッツ農科大学と札幌農学校のことである。マサチュセッツにおいて、彼は社会的地位の低かった農民の子弟に高い教養と知識を植え付け、個々の人格を高め、農村社会の地位の向上を目指すことによって、当時の工業の発展に伴い都市に流れる人口流出を食い止め、農村の過疎化を防ごうと説いた。クラークの思想は大学内の教育の機会均等、平等主義だけにとどまらなかったのである。大学教育を中心に、農村社会全体の知的、道徳的、地位的、経済的レベルアップを目指していた。この試みには反対者も多く実践は困難を極めた。農民の無関心と、金食い虫の大学に対する批判がクラークを苦しめた。日本政府から札幌農学校への招聘を受けた頃にはその批判が極限に達し、地方新聞の総攻撃を受けていた。札幌ではさしたる抵抗もなく、クラークの教育方針は歓迎され、即座に実施され、北海道の農業の発展に大きく貢献し、彼の言葉は時代を超えて記憶されるようになった。クラークは、札幌では彼の理想とした大学の姿、平等主義のみならず、宗教的道徳を中心に据えることをも実現することができた。札幌農学校の一期生たちは彼の起草した「イエスを信ずるものの誓約」に全員が署名したのである。クラークは彼らとの別れに臨んで、「私が札幌で成したことの中で、君たちにゴスペルを教えることができたことほど私を満足させるものはない」と述べた。
偶然出会った二つの論文が、教育における平等主義を取り上げ、片や新渡戸、片やクラークについてのものだった。腰痛の効能 恐るべし。(毒舌学者)

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