遠友夜話10 「札幌」内村鑑三、石川啄木、そして「暮しの手帖」の花森安治

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アメリカ西海岸、カリフォルニア州の北に位置するオレゴン州。その太平洋岸にあり、コロンビアリバーの河口にあるオレゴン州で最も人口の多い都市がポートランドである。米国人にとって、全米一住みたい都市であるという。市の中心地でも木の緑とビルが調和したしっとりとした美しい街である。超高層ビルの建築は制限されている。市電やバスの公共交通網も整備され、車なしで気軽に市内各地を移動可能だ。従って排気ガスも少ない。しかし私がオレゴン大学に留学していた50年近く前は、アメリカのどこにでもある、白く乾いた、ミニサンフランシスコといった感じの街であった。街の一角には汚い古い建物が立ち並び、身の危険を感じるような道路もあった。それが今では豹変しているのである。詳細は知らぬが、ある市長の時、もうこれ以上の高層化はいらない。として、環境優先の都市作りがスタートしたらしい。背景には、オレゴニアンの緑を愛する心があるのだろう。

留学時代、ニューヨークからオレゴンまでバスでアメリカを横断したことがある。オレゴンに入ると、同乗の若いアメリカ人男性が、「やっぱりオレゴンはいい。匂いが違う。」といった。緑が濃くなり、木の香りがした。アメリカで最後に拓けた州。オレゴンの人々はその緑を愛している。私がオレゴン大学に在籍していた頃、たくさんのヒッピーが全国からオレゴンに流れてきた。オレゴンはメロー・プレイスだと言っていた。メロー(mellow)とは、辞書的には、芳醇な、豊かで美しいなどの意味だというが、実際に使われている状況からはそれに「穏やかさ」が含まれた意味合いになるだろう。穏やかで豊かで美しい地オレゴン。こうしたオレゴンを愛する人々が経済性よりも生活の質を優先して作り変えた街がポートランドである。

ポートランドは北緯45度で札幌と同緯度。そんな縁で姉妹提携したのは1959年だという。そういえば、ポートランドのあるオレゴン州はアメリカのラストフロンティア。札幌のある北海道も日本で最も遅く開発された土地である。そんな共通点のある姉妹都市だが、美しい街へと変身したポートランドに対し、現在の札幌はポートランドの姉妹都市というにはあまりにも恥ずかしい有様である。高層化され、緑は消え、白化現象は今まさに盛んである。都市景観はそこに住む人々の価値観の現れであり、またそこで育つ子供達の人間性に影響を与える。そして、都市景観の変遷はそこに住む人々の価値観の変遷を反映しているといえよう。明治初期に小さな集落からスタートした札幌はどのように変遷してきたのであろうか。

1877年当時 内村鑑三

「札幌において、私どもを薫陶してくれました最良の教師は人なる教師に非ずして、生けるそのままの天然でありました。そのとき北海道はまだ造化の手を離れたばかりの国土でありまして、いとも美わしき楽園でありました。」(級友・岩崎行親宛の古希を祝う手紙 註1)、 「アメリカの碩学(せきがく:学問が広く深い)ルイ・アガシーは”Study Nature, not Books”と申されたが、実に至言である。余は摂理の神が、余を余の乳母校札幌農学校に托したまいしことを感謝する。余は余の青春時期を北海の処女林の中に彷徨する機会を与えられしを感謝する。余にしてもしその時帝都汚濁の中に留め置かれしならんか、東京大学初年の卒業生の中に名を列し、心にモーゼの神を認めずして単にエジプトの学者または法律師として生息していたであろう。」(註2)
註1 秋永芳郎 「反逆と祈り 内村鑑三の青年時代」 読売新聞社 1970年
註2 大島正満 「水産界の先駆 伊藤一隆と内村鑑三」 1963年

1907年 石川啄木 「秋風記」

「札幌に似合へるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり、
自転車に非ずして人力車なり、朝起きの人にあらずして夜遅く寝る人なり、
際立ちて見ゆる海老茶袴(えびちやばかま)に非ずして、しとやかなる紫の袴なり。」

「札幌は寔まことに美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして、人の香よりは、樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。」

1908年 石川啄木 「札幌」

「改札口から広場に出ると、私は一寸立停つて見たい様に思つた。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシヤの街なみきは、蕭条たる秋の雨に遠くとおく煙つてゐる。其下を往来する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いて歩いてる様に見える。蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝(あたり)の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。」

1926年 内村鑑三 小樽新聞

「明治の初年において、私どもが北海道について抱いた理想は、はなはだ高いものでありました。それは此処札幌を、日本第一の収穫地、ならびに精神の修養地と為さんことでありました。しかしながら今日に至って事実如何にと観察すれば、理想は何れも裏切られたのであります。北海道は日本を浄化するどころか、かえって内地の俗化するところとなりました。今や日本中で北海道ほど俗人の跋扈(ばっこ)するところはないと思います。また札幌が大学の所在地となったことは事実ですが、しかしながら札幌の地が学生を養成するのに最も良き地であるかは、今は大いなる疑問であります。天然的に最も恵まれたる札幌は今や官僚化され、商人化されて学生生活を送るには、はなはだ悪い所となりました。
札幌が出したものは多数の従順なる官僚、利益にたけたる実業家、または温良の紳士であります。しかれども、正義に燃え、真理を熱愛し、社会人類の為に犠牲たらんとする人物は一人も出しません。積極的の大人物ではありません。進んで善事を及ぼさんと致しません。主として消極的の人間であります。私はクラーク先生の精神は札幌に残っているとは思いません。残っているのは先生の名であります。しかし、それだけのことであります。先生の自由の精神、信仰は今の札幌にはありません。札幌は先生のボーイズ・ビー・アンビシャスの広い意味において、これを知りません。クラーク先生の精神が解る時は札幌に精神的革命が始まる時であります。札幌の今日の精神的状態を見て先生は天にありて泣いて居られることと信じます。」(北大創立50周年にあたって、内村鑑三が小樽新聞に寄せた言葉)

1954年 花森安治「日本拝見その12 札幌――ラーメンの町――」in「週刊朝日」

「アイヌ語で、乾いた大きな河という意味の町。
リラが咲いて、アカシアの並木道のつづいている町。
馬ゾリが、シャンシャンと鈴をならして雪の上を走る町。
五番館や時計台や道庁や、川上澄生ふうの明治調版画の町。
アイヌ混血の、つぶらひとみの乙女の町。
碁盤目のように整然と区画された町。
冬はどの家もストーブを焚く町。異国情緒の町。
サッポロ。
……なるほど、みんなウソではなかつた。
ここには雨季はないから、つゆどきも乾いた大きな河にちがいない。
ただ、その「乾いた河」の上を、ものすごい「馬糞風」が吹いて、町のひとはみんな、黄ナ粉をまぶしたような顔をして歩いているだけだ。
リラ も咲く、アカシアの並木も続いている。
ただ、そのリラもアカシアも、すっかり馬糞をかぶつて灰色に咲いているだけだ。馬ゾリも鈴を鳴らして走る。
ただ、 そのソリは甚だしく汚らしく、その雪の色は、とても黒いだけだ。
明治調の洋館もある。
ただ、ボロボロに朽ちて次から次へ、ブッこわしがはじまっているし、その隣り近所は、殺風景なビルや電柱やペンキ絵やネオンサインに埋まつているだけだ。
北大のポプラ並木は、実はものの一町ほどしかないし、つぶらなひとみの乙女も、東京のハヤリときけば零下十なん度の町をナイロン靴下一枚で、すつかり頬を紫ぐろくしている。
碁盤目に整然とした道は、雨ふれば田ンボの如く、晴れると、町中がゴミ箱みたいになる。
ああ、異国情緒の町、サッポロ。
観光リーフレットには、「東洋のパリ」とさえ書かれている。」

1964年 花森安治 「札幌」in「暮しの手帖」73号

「理想の星をかかげた旗は、あっけなく下ろされてしまったが、このみじかい年月に、開拓使がこの町に残していったいちばん大きなものは、ひろい道路でもなく、大きな官営工場でもなかった。
札幌農学校である。
開拓の中心は、学問である、この考えが開拓使の方針をはっきりとつらぬいていた。その学問と技術の底に、〈精神〉をたたきこんだのが、初代教頭クラークであった。
クラークは、明治10年4月、ようやく雪のとけようというころ、札幌を去ってアメリカに帰った。札幌からおよそ25キロの島松まで、学生たちは馬に乗って、見送っていた。
いよいよ別れるとき、クラークは、学生たちに手をふって、いった。
Boys(ボーイズ)Be Ambitius!(ビー アンビシャス)(諸君、理想をつらぬこう)
このみじかい一言は、学生たちの心に火矢となってつきささった。クラークの点じたその火は、燃えて、生涯消えることはなかったのである。
その一期生に、佐藤昌介(しょうすけ)、大島正健(まさたけ)ら、二期生に内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、町村金弥らがいた。」

「かつて、寒風にりんれつと鳴ったあの壮大な歌声は、もうどこにも聞かれなくなった。
この町は、歌うことをやめた。
旗音はやんだ。
理想の星は消えた。
かつて、かがやかしい理想をかかげて立っていた時計台は、小ざかしい夜間照明に残骸をさらし、その破風(はふ)に星が打たれてあることさえ、しらぬ人がふえた。その鐘の音は、すさまじいトラックの騒音にかき消されて、きくすべもない。
かつて、若い情熱をたぎらせ、新芽を空にのばした北大のポプラ並木は、枯死寸前、観光客の失笑のまえに、老残の身をさらしている。
これが、札幌なのか。
これが、かつて新しい町づくりの夢を託した札幌なのか。
〈理想〉という言葉は、色あせ、汚れ、たれもかえりみなくなった。〈理想〉なき人間が、したり顔で国つくりをいい、人つくりを説いている。
そして、札幌は、いま泥まみれの盛装に飾られ、花やかな挽歌につつまれて、東京のご都合主義の指さす道を、歩こうとしているのだ。
札幌よ。
その鉛いろの空とビルの上に、
いま一たび、新しき旗をかかげ、
りんれつと寒風に鳴らしめよ。
札幌よ。
いま一たび、ここにかがやかしき星をかかげ
りょうりょうと北風に歌わしめよ。
老人すでに黙すとあれば、
若き者たて。
男子すでに志を失うとあらば
女子立て。
立って、日本にただひとつ、
ここに、理想の町つくりはじまると
世界に告げよ。
Boys and Girls,
Be Ambitius!」

この文章(「札幌」)は花森安治がまとめた単行本「一銭五厘の旗」にも掲載されている。29あるその本の目次の見出しの中で、都市の名前がついたものは「札幌」だけである。目次の最初の見出しは「塩鮭の歌」、そして2番目が「札幌」なのである。因みにこの本の題名の元になった「見よぼくらの一銭五厘の旗」は6番目の見出しだ。何故花森は北海道に関係あるもの2つを最初に持ってきたのだろうか。
北から列島縦断的に話を展開するのならわかるが、そういう構成ではない。
「札幌」の中で花森はBoys, Be Ambitiousを「諸君、理想を貫こう」と訳した。「暮しの手帖」における彼の編集姿勢はまさに、「理想を貫こう」という精神に貫かれている。この本(「一銭五厘の旗」)は理想を貫こうという精神と反戦思想に満ちている。一銭五厘は召集令状の切手代である。理想と希望に燃えていた時代の札幌は美しかった。理想が色あせたとき、その都市も潤いを失った。

「かつて、若い情熱をたぎらせ、新芽を空にのばした北大のポプラ並木は、枯死寸前、観光客の失笑のまえに、老残の身をさらしている。
これが、札幌なのか。
これが、かつて新しい町づくりの夢を託した札幌なのか。
〈理想〉という言葉は、色あせ、汚れ、たれもかえりみなくなった。〈理想〉なき人間が、したり顔で国つくりをいい、人つくりを説いている。
そして、札幌は、いま泥まみれの盛装に飾られ、花やかな挽歌につつまれて、東京のご都合主義の指さす道を、歩こうとしているのだ。」

花森のこの警告は、それより38年前の内村鑑三の警告とそっくりではないか。それでも性懲りも無く開発、発展とやらを推進する札幌に対し、40年後の2004年9月8日、天は台風18号を遣わし、北大のポプラ並木をなぎ倒した。だが、まだ懲りていないようだな。姉のポートランドに追いつくのには何年かかることやら。(毒舌学者)

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