遠友夜話4 富士山来たかい?

もう4月になってしまったが、先月の話である。毎年、卒業シーズンになると北大応援団から、OBのところに追いコンの知らせが来る。この追いコン、最近ではまず有島武郎作詞の札幌農学校校歌を斉唱して開宴し、寮歌「都ぞ弥生」で閉めることになっており、その間は料理を食い酒を飲み談笑するのだが、OBと現役なので、顔見知りもいれば初対面のものもいる。ある時点で、参加者全員が各自、卒業生に対し、「普通なら4年間でさっさと卒業してしまうのに、君は勉強熱心で5年間もよく頑張った」などと、はなむけの言葉を述べ、自己紹介をする。まず現役の一年生からそれは始まる。彼らの自己紹介は独特で、○高校しゅっしーん、北海道大学○学部○学科1年目1ねーん、その名もその名も、なんのたろべいと大音声で名乗るのだ。その後、卒業してゆく先輩との思い出話などを紹介してゆく。OBも高齢者になると大音声で怒鳴ることはしないが、真面目な説教を垂れたり、そこに出席している、久々に顔をあわせる同期や後輩とのエピソードを語ったりと愉快に進行するのだが、応援団といえば北大内では言わずと知れた劣等集団、笑いのネタにはつきることがない。
さて、今日お話ししようと思うのは、そんな笑いの一こまである。昭和37年入学の諏訪先輩(第52代応援団長、元北大農学部長)の挨拶の番になった。彼の思い出話は7大学戦で九州に応援に行った時のことであった。7大戦終了後、鹿児島の吉原先輩(第51代応援団長 元農学部教授)の実家を訪ねた。「先輩の実家では、息子が北大まで行ったが、ボロをまとって、こじきのような格好をして帰ってきて、あー、この子は大丈夫だろうかと嘆いていた。そこに私が訪ねて行ったので、ご両親は、こんな立派な後輩がいるなら、息子もきっと大丈夫と思ったに違いない。」「九州からの帰り、鵠沼の藤田(私 第54代応援団長)のうちに寄った。藤田は盲腸の手術をしたばかりで実家で寝ていた。お母さんが、息子は北大まで行ったが、ボロをまとって、こじきのような格好をして帰ってきて、あー、この子は大丈夫だろうかと嘆いていた。そこに私が訪ねて行ったので、お母さんは、こんな立派な先輩がいるなら息子もきっと大丈夫だと思ったに違いない。」と自賛して大いに笑いをとった。そこに後輩の千川くん(第57代応援団長)が、「諏訪さん、日本には『ふじさんきたかい』という教えがあるのをご存知ですか。」?なんだ? 「富士山来たかい」という教え?「自賛せず、他人を謗らないといういましめです。」と千川くん。「不自賛毀他戒」と書く。「知らんが、その教えと、俺の話と何か違ったところがあるというのかい?」と諏訪先輩。「いえ、全くありません。教えの通りです。」と千川くん。ここで皆大笑いしたが、こんなやり取りができるほど、先輩後輩の間にわだかまりがない。学生時代から、兄弟以上の関係で、先輩はよくありがちな恐怖の対象ではなかった。本州の大学の体育会系クラブの軍隊式の上下関係とは全く違った上下関係が北大にはある。クラーク博士以来の民主主義と紳士の思想が学生間に伝統的に無意識に染み付いているのであろう。

ところでこの「不自賛毀他戒」の教えとはどこから来たのかネットで調べてみた。仏教の「十重禁戒」すなわち、十の重要な守るべき戒めの一つであるという。モーゼの十戒を思い出すなあ。そこで他の教えも調べてみた。

仏教「十重禁戒」:
不殺生戒   殺生をしない。あらゆるいのちを大切にする。
不偸盗戒   盗みを働かない。
不邪淫戒   姦淫しない、欲の赴くがままに、あれこれ貪らない
不妄語戒   うそをつかない。うそ・偽りの言葉を使わない。
不酤酒戒   酒に酔うかのごとく、自分の能力などに酔わない
不説過戒   人の過ちを責め立てない
不自賛毀他戒 自慢や他人の批判を慎む
不慳法財戒  みんなと分かち合う(幸せを独り占めしたりしない)
不瞋恚戒   怒りの感情を露わにして、周囲に不快感を与えない
不謗三宝戒  仏法僧の三宝を敬う

おや、これって、と思い、モーゼの十戒もウィキペディアで調べてみる。

モーゼの十戒
1 主が唯一の神であること
2 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3 神の名をみだりに唱えてはならないこと
4 安息日を守ること
5 父母を敬うこと
6 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7 姦淫をしてはいけないこと
8 盗んではいけないこと
9 偽証してはいけないこと
10 隣人の家をむさぼってはいけないこと

人間が社会で生活をして行く上で、戒めとしなければならないことは洋の東西を問わず同じなのだなあ。札幌農学校生徒にクラーク博士が残した「イエスを信じる者の誓約」の文章はモーゼの十戒を踏まえている。そこに説かれている教えは当時の日本人の行動の規範の背景にあった武士道や仏教の教えと相反するものではない。神さえ受け入れられれば、人間の行動に関する戒律は当然のことと受け入れられたであろう。

「十重禁戒」には十戒の神に関することと、父母を敬うこと以外の5つの教えが含まれている。その上で、十戒に無い「不自賛毀他戒」を含む5つの教えがある。それは全て、内省の教えである。この違いこそが西洋人と東洋人の違いなのかもしれ無い。留学中に感じたことがある。東洋人と接すると何故か安心できるのだ。自己の価値観を疑うことなく主張する姿勢と、相手を尊重し、内省しながら考えを述べる東洋人の姿勢。後者の方が一緒にいて居心地が良いのだ。これはスポーツ選手の態度にも見られるような気がする。あっけらかんと、あるいは得意げに自分の勝利を自賛する西洋のスポーツに対して、「道」のつく日本のスポーツでは礼に始まり礼に終わる。勝利しても敗者に気遣って極端な喜びの表現はしない。

美しい国日本を取り戻したいのなら、内省的な優しい国民性を取り戻す教育を推進してほしいものである。教育に競争原理をという、勝ち組優先の最近の教育論と、道徳教育の教科化。いったいどのような道徳教育が矛盾しないのでしょう。まさか「勝つことが善である」とは教えないでしょうね。(毒舌学者)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください