ここに昭和20年、北大予科恵迪寮に入寮した細野順三氏の昭和20年8月15日の日記がある。のちに野村姓となった順三氏が逝去され、奥様より恵迪寮同窓会に寄託されたものだ。
八月十五日
大東亜戦争此こに終戦す
畏くも大詔渙発さる。昭和十六年十二月八日開戦以来激闘四年有半遂に敗る!
國破れて山河あり!今静かにゝ過ぎし途を顧みるに忌まわしき思ひ胸中に往来するのみ
噫!悪夢よ、去れ長き悪夢よ!
永へに去れ!そして再び平和を愛する日本人の上に訪れる勿れ!
悪夢より覚めた人々よ、躊躇する勿れ!
正々堂々と本来の道を歩むべし。
鳴る!響く!悪夢覚醒の鐘の音を!
長き米英軍の占領があるであろう
だが武器を捨てた、悪夢より覚めた我々は
ポツダム宣言の忠実な履行者でなくてはならぬ
文化国として再出発するのだ!
怖るべきは、反動勢力のボッコウ!
赤化救国の流行、偽民主々義のボッコウ、終戦により疲れた我々には
新たなる再建に向かって真一文字に進むのだ
戦争中の事は何も云ふまい、只悪夢として
然し!今後こそ思ふ事為す事果敢に
吐露し行動せん ミリタリズムは亡びだ
再び“日本人にはミリタリズムでなければ駄目だ”の如き不実な言は避けしめよう
そして何故敗れたか何故敗れしめたか
考究して見よう目覚めたる大和民族の目覚めたる第一歩だ!
“幸福なるかな心の貧しき者天国はその人のものなり
幸福なるかな悲しむものその人は慰められん
幸福なるかな心の清き者その人は神を見ん”
「数百年間暗雲の如くアジアの国民を包蔵し、門地と習慣との
虐政を斯くの如く奇異に脱し得たる事は将来教育を受くる
学生諸子の胸中に自ら崇高なる大志を喚起するに至るべし
青年諸子、紳士!希わくは皆諸子の最も誠実有力なる
勤務を大に要望する所の母國に於いて、勤労と信任と
又それより生ずる栄誉の最高位置に適さんことを勉めよ。!
健康を保持し、情欲を制し、従順と勉強の習慣を養ひ
時機の学ぶべきに遇はず、学術の何たるを論ぜず、力の及ばん
限りはその知識と妙功とを求めよ!斯くの如くして而して諸子は能く重要の地位に適すと謂ふべし。」 ―――クラーク先生開校講演より――
昭和20年予科入学といえば、まだ18、9歳であろう。入寮から4ヶ月あまり。詔勅におそらく多くの国民は敗戦の悲嘆にくれていたであろう。しかし、日記から見えてくるのは、若き細野氏にとって敗戦は新たな出発のようであった。「正々堂々と本来の道を歩むべし」「文化国家として再出発するのだ」。戦争を悪夢とし、ミリタリズムを全否定し、偽民主主義を警戒している。何故彼はかくも覚醒していたのか。それは、北大恵迪寮にはクラーク博士以来の自由の思想の燈が、戦時中の弾圧の中を生き抜いてきていたからであろう。自分の頭で考える。恵迪寮には洗脳されざる若者たちがいたのだ。いみじくも彼はこの日の日記の最後に、クラーク博士の札幌農学校開講式辞の一節を書きつけている。クラーク博士こそ、民主主義を知らない明治初期の日本に、自由と民主主義の思想を持ち込み、自由自主独立博愛と弱者の側に立つ精神を札幌農学校生徒に叩き込んだその人である。
札幌遠友夜学校の学生教師だった宍戸昌夫氏も恵迪寮生で昭和11年度寮歌一節に「嗚呼(ああ)茫々の大荒野 先人ここにくさぎりて(開拓して) 建てし自由と自治の城」と歌った。この歳は2・26事件のあった年である。軍靴の音高鳴り、自由や自治という言葉さえ弾圧された時代であった。彼は当時を回想して「学問の自由すらも憲法で許されることの無かった時代は現在の学生諸君には理解を超えることであろう。その中で、自由と自治を高く掲げて寮生活を人間錬成と人格陶冶の場として自らを戒めつつ、団結して当局の弾圧に抵抗して来た頃を回顧すると、今なお胸の騒ぐ思いがする。」と手記に残している。恵迪寮生が自治制を敷くようになったのは当時札幌農学校の教授であった寮の大先輩、新渡戸稲造の影響が極めて大きい。そしてその自治と自由を寮生は頑なに守り通した。恵迪寮の伝統かくありき。
細野氏と同じ昭和20年入寮の弘田幸裕氏の手記に以下のようなものがある:
「予科講堂で行われた入学式はあの有名な宇野親美(ちかよし)予科長の情熱を込めた学問と叡智のお話のあと、多分学生部長か配属将校の講和だったと思います。「八紘一宇の精神で...」と話しが進んだとき、新入生の一人が手をあげての質問が、「八紘一宇と言うのは日本が考え出した侵略思想の隠れ蓑ではないのですか」と言うものでした。小学校の時から戦時教育を受けて来た私には質問の意味すら分かりませんでした。(中略)
午後の軍事教練は好奇心おう盛な私も仰天同地の驚きを味わいました。教室での授業が終わり、3時に校庭集合とのことで寮に戻って服装を整え、ゲートルを撒いていると、先輩が「下駄でいいんだよ、ゲートルはいらないよ」と言う。おかしいな、これで教練が出来るのかなあ等と考えながら集合してみると、皆同じように下駄履きのゲートルなし。やがて長靴に軍刀の正装で現れた将校がこれを見るや、怒髪天を衝く形相で「下駄とは何か、靴が無ければ裸足になれ、ゲートルが無ければズボンの裾を縛って来い」 三々五々ぞろぞろ寮の方に帰りかけると、「裏の農場に行って藁を拾ってズボンの裾に結んで来い」という先輩の伝言が行き渡り、一刻してズボンに藁を結んで裸足になった乞食のような集団がゾロゾロと校庭に集まったときには「お前達は赤か、お前達が幹候の試験を受けても皆落第だぞ、絶対に下士官にもならせないぞ」と大音声の捨て台詞を残して教官は荒々しく帰ってしまい、その後教練はなし、と言う具合でした。」 洗脳されざる人々のささやかな抵抗であった。このような雰囲気の中で4ヶ月を過ごした細野氏の日記である。寮にクラーク博士や新渡戸の精神が脈々と流れていた当時が偲ばれる。
戦前、国の戦争政策を厳しく批判し、戦後、相次いで東大総長となり、戦後民主主義のリーダーとなった南原繁や矢内原忠雄は新渡戸稲造と内村鑑三から強い影響を受けた。いわば、札幌農学校精神の継承者でもある。自由の弾圧にささやかな抵抗をしていた終戦当時の恵迪寮生と同じ思想的ルーツに立つ。
嗚呼、今の時代の若者に、この思想の継承者たれというのは無理なことなのであろうか。(毒舌学者)
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