「しかしながら、今日のセレモニーには特別な意味があります。」オバマ前大統領にスムーズな政権移譲の謝意を述べた後、米国大統領に就任したばかりのトランプ氏は切り出した。「というのは、単に一つの政権から別の政権へ、あるいは、ある党から別の党へと権力の移譲が行われるだけではなく、我々はその権力をワシントンからあなた方、人民へと再びとり戻そうというのですから」。明らかにトランプ氏が前日訪れたリンカーンメモリアルにも刻まれている、29代前の偉大な共和党の大統領リンカーンの言葉「人民の人民による人民のための政治」を意識しての言葉であろう。しかし、オバマ大統領に礼を述べたばかりなのに、何と前政権に対して非礼な言い方ではないか。
「最も重要なことは、どちらの党が我々の政府をコントロールするかではなく、我々の政府が人民によりコントロールされているかどうかだ」「2017年1月20日は、再び人民が国の統治者となった日として記憶に刻まれることでしょう。」「忘れられていた我が国の男性も女性も、もはや忘れられることはない。いま、皆があなた方の言うことに耳を傾けている。いま、あなた方は何万何十万の人々とともに、世界がかつて見たこともないような歴史的な動きの一部になっているのです。そして、この動きの中心にある最も重要な理念は、国は国民に奉仕するためにあると言うことであります」。一瞬、その通りと言いたい所だが、オバマケアと呼ばれる貧者に手厚い皆保険制度を導入し、曲がりなりにも米国伝統的な自由と人権と民主主義を守り、最下層の人々に手を差し伸べる政策を実施して来た前政権に対し、オバマケアを否定し、差別発言を繰り返して来たトランプ氏の口から語られる言葉の何と空々しいことか。「政府は人民がコントロールする」「国は国民に奉仕するためにある」。アメリカ建国以来の民主主義の基本理念であるが、彼の言う「人民」や「国民」という言葉はオバマやリンカーンの人民とは違うようだ。
トランプ氏は「忘れられていた我が国の男性女性」に呼びかけているのである。彼の言う忘れられていた人々には特別な意味が込められている。この人々こそ、トランプ氏の語る差別意識を本音として強く持ち、マイノリティーや弱者に対する優越感をあからさまに主張したくても、「アメリカの良心」の前に主張出来なかった中産階級以下の白人である。弱者やマイノリティー優遇政策を苦々しく思っていた人々である。彼はこのクラスの人々に不満が鬱積していることを見抜き、それを利用した。トランプ氏はこういう人々のことを人民と呼び、国民と呼んだ。こういう人々が政府をコントロールし、国はこういう人々のために奉仕するためにあると主張した。「国は国民に奉仕するためにある」一見、建国の精神やリンカーンの精神を語っているかのように見えるが、彼の言う「国民」とは誰のことかを推し量る時、トランプ氏の主張は、実は建国の精神とは全く違った主張であることが分かる。こうした意味で、トランプ氏の当選は革命的であり、我々はアメリカの民主主義が衆愚政治に置き換わった瞬間を目撃しているのである。おろかな国民が彼らに相応しい代表を選ぶ。民主主義の落とし穴である。
トランプ就任演説中の、一見、アメリカの建国の精神を踏まえたかのような言葉はここまでで、ここからは損得勘定でアメリカの国益を第一に優先すると言う、品のないビジネスマンのような主張と、国を繁栄させる、ナンバーワンのアメリカを取り戻す、強いアメリカを取り戻すという国家主義的、愛国的な内向きの主張を繰り返えしたのみである。オバマ大統領の就任演説に比べると、文章自体の格調も、思想も、ビジョンもスケールも、醸し出される人格も、全てに渡って格段に見劣りのする演説であった。これではアメリカ人も恥ずかしかろう。
リンカーン:「何人にも悪意を抱かず、全ての人に慈愛を持って」
トランプバージョン:「全ての人に悪意を持って、何人にも慈愛の心を持たずに」
アメリカに於ける風刺である。ネット検索すれば、他にも、トランプ曰く「多くの人に悪意を持って」とか、トランプ氏の大きく醜い顔の上に「リンカーンの党 何人にも悪意を抱かず、全ての人に慈愛を持って」と書いたものなど、我々の愛するリンカーンの言葉と、同じ共和党のトランプ氏の主張とを対比させた風刺が沢山ある。良心的なアメリカ人にとって、トランプ氏が自分たちの大統領とは受け入れがたいものがあろう。全米で200万人もの人々が反トランプデモを行ったと言うことである。一部では暴徒化した所もあったようだ。Long and Hot Summerの再来を予感させる。
ここで、これまでのトランプの主張と併せて二つのことに気づいた。先ず第一は、中産階級や、貧困に陥りそうな白人の不満を、自らが所属する富裕層の儲け過ぎによる貧富の格差に目を向けさせるのではなく、移民や不法滞在者、非白人下層階級の人々に対する不満、あるいは、彼らに手厚い政策を施したことに対する不満へと誘導していることである。トランプ氏は貧困に陥りそうな人々と貧困層の人々を争わせて、貧困の真の原因である富裕層の搾取から目をそらさせる手法をとっている様に見受けられる。この手法は日本にも見られる。生活保護の不正受給など微々たるものなのに、目くじら立てて宣伝し、国民の不満を小さな不正に向けさせて巨悪を隠す手法である。
もう一つは、トランプ氏の主張はアベノミクスと国益という言葉を振り回し、ナショナリズムを煽り、「日本を取り戻す」と主張する我が国の首相の主張と非常によく似ていると言うことだ。空々しい言葉を平気で語る二枚舌ぶりもよく似ている。ヨーロッパやアジアでもトランプ氏のようなナショナリストが台頭して来たと話題になっているが、日本の国の中にいると、日本でも同じようなことが起きていることに気づきにくいのだろうか。
アメリカでは大統領の就任演説には決まり文句のように、自由、民主主義、人権、平等、博愛、正義等の建国の精神が語られて来た。聴く方に取っては、本音を隠した建前と知りつつも、原点に返る、一種、清々しいものがあった。日本では国のリーダーが理想を語らなくなってから久しい。そういう意味では我が国がアメリカの先を行っていると言うべきか。民主主義から衆愚政治への移行のことである。進化とは言えない。(毒舌学者)
アメリカ国民が1年2年という考える時間があったにもかかわらず、テレビ、新聞、雑誌、インタネット、ツイッター、演説といった文字、音声に惑わされ、何が正しい政治か、どの候補者が良い政治をしてくれるかといったことを、世界の古代文明や各国の何千年にも及ぶ歴史に照らすとか、政見の中身を検討して判断するとかをあまりせず、外見や言葉、財力などで二人の候補者を選んだことにまず、問題があったように思います。各党による大統領の立候補者選びや、国民、政治家、マスコミの立候補者に対する評価検討にもっと真剣さ、緻密さが必要ではなかったでしょうか。また、選挙に行かなかった人も多かったようで、今反省している人もいるようです。
大国アメリカがこれから受難の時を迎えると思います。ぜひアメリカ国民と政治家がもっと思慮深く、慈悲深く、人間愛に富んだ行動をしてくださることを望み、見守りたいと思います。翻って日本国民、政治家は、今までアメリカの言うことに従っていればまあ大丈夫といった安易な気持ちでいたかもしれませんが、これからは日本人が世界に向けて、また日本に向けて、新渡戸稲造が考え、行動していたような慈愛、民主主義、平等、平和の思想、遠友夜学校の校是である「学問より実行」(いくつかの解釈あり。「学問ばかりしていないで、実行しなさい」、「学問した内容を生かして、実行、行動しなさい」、「学問より実践が大事」)、リンカーンの言葉「何人にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛を」を実行すべき時ではないかと思います。自分は、自国は、どうするのかというイニシアティブが問われていると思います。