エイプリルフールかと思った。「中学校の保健体育に銃剣道」。3月31日に告示された中学校の学習指導要領に新たに盛り込まれたというのである。明治以来、旧日本軍の訓練に用いられて来た銃剣術の流れをくむものだ。なにやら、軍事教練を彷彿とさせる。ちなみに、我らが札幌遠友夜学校は「軍事教練を課さない学校は学校と言えない」とされ、平和主義を貫いて閉校となった。
同じく3月31日、安倍内閣は教育現場での教育勅語の使用に関して「憲法や教育基本法などに反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定した。森友学園が経営する幼稚園で園児が教育勅語の暗唱するのを高く評価してきた人がたくさんいる政党が作り上げた内閣だもの、そりゃあそうだろう。教育勅語の中身にはいいことがたくさん書かれている。しかし、それらを大くくりにしているベースは天皇中心主義の臣民としての徳義ということだ。そこが民主主義とは相容れない。菅義偉官房長官は野党が「戦前回帰」と批判していることに関し、「指摘は全く当たらない。政府としては現行憲法や教育基本法に沿って適切に対応していくことに尽きる」と反論したそうだ。その現行憲法も変えようとしていることを棚に上げて。
森友学園といえば、国会喚問での籠田氏はそれなりに堂々としていた。日本初の神道小学校を作ろうとした森友学園の籠田氏を散々おだてて応援し、まずいことが発覚すると、突如、彼一人を悪者にして幕引きをはかろうとする。喚問では、「偽証罪に問われますよ」と何回も脅しのように繰り返す、彼のかつての盟友のはずの自民党国会議員のなんと胡散臭いことか。籠田氏がピュアに見えた。森友学園問題で明らかになったことのいちばんの問題は格安の払い下げ問題でも、補助金の不正受給でもない。首相や首相夫人をはじめ多くの国会議員が、国家神道を全面に押し出し、教育勅語を園児に暗唱させるような教育を素晴らしいとしていたことだ。そして、彼らが今日本の指導的立場にいるということだ。
今年度から正式教科化される道徳の教科書に文科省の奇妙な教科書検定が報道されている。道徳教育で「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」を学ばせるのだという。「パン屋さん」を「和菓子屋さん」、「消防団のおじさんを、消防団のおじいさん」に変えて検定承認されたということだ。消防団に「おじいさん」がいなければならないようだったら、消せる火も消せなさそうだ。3、4年生の学習指導要領には「父母、祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること」と記されている。悪いことではないが、教科として学び、評価までされることだろうか。多様な家族形態が存在する今日、「子供達の家庭環境の多様性に配慮をするように」と促すのが指導要領としてのあるべき姿ではあるまいか。さらに、この文言は教育勅語の中身を彷彿とさせるが、愛国心教育と並んで、教育勅語の現代版を「道徳」で教えようとしているようだ。次第に国民を臣民にしようという方向に進まないと良いが。
加えて、平成27年4月より施行された学校教育法及び国立大学区法人法改正(改悪)では、教授会からの決定権の剥奪、今まで大学の最高議決機関だった大学評議会からの最終決定権の剥奪と学長の権限強化が規定されている。さらに、文系学部の縮小や、入学、卒業式等における国旗掲揚国歌斉唱が指導されるなど、この政権はやたらと教育に口出ししたがる。新渡戸稲造は1893年に出版した英文の「札幌農学校」という小冊子の最後で「政治は教育機関に決して干渉すべきではない」と述べた。戦後の教育基本法にはその影響が強く反映された条文・第10条があった。「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行われるべきものである。」この条文の成立過程を調べれば「不当な支配」とは政権や官僚からの不当な支配のことであることがわかる。これが旧安倍政権のもとで改悪され、似た文言ながら、内容は180度変わることになった。新教育基本法第16条では「教育は不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定める所により行われるべきものであり、…」となっており、前半は旧基本法10条と同じであるが、後半で時の政権が法律により教育を規定し支配することができるように変えられたのである。「不当な支配」の主体は、当時の伊吹文部大臣の国会答弁によれば、「日教組など」だそうだ。この改定により、国権は教育に容易に介入できるようになった。
久々に北大獣医学部の学位記授与式に出席した。政権への忖度か、お達しがあったのか、壇上の正面中央には大きな日の丸が貼られていた。その隣に学部の旗が、以前にそれがあった場を日の丸に譲って貼られていた。団に上がる人はその日の丸に一礼して演壇についた。私が学部長だった時には日の丸はなかった。日の丸に一礼したこともなかった。(そのうち不敬罪になりそうだな。) かくいう私は日の丸が大好きである。だが日の丸をこうした時に掲げなければならないとする思想は嫌いだ。ましてそれに一礼するなんて。押し付けがましい。一方、オリンピックで揚がる日の丸・君が代は感動的だ。日の丸が平和のシンボルとしてはためく限り、私はこの旗を愛する。この旗を再び戦火で汚すことの無いように望む。
防衛省の軍学共同研究予算の大幅増と文科省の大学予算削減による軍事研究の推進については遠友夜話第7話と13話で既に書いた。特別秘密保護法、盗聴法の適用拡大、平和安全法制と呼ばれる戦争準備法制、駆けつけ警護、そして、日本国憲法九条の不戦の誓いを撤廃しようと言う憲法改悪を主導、加えて、テロ等準備材と呼ばれる共謀罪など、現政権は来るべき戦争に着々と準備を進めているようだ。法整備とともに戦争には民意を偏狭な愛国心(ナショナリズム)へと導く必要がある。そのために取られているのが上に述べた教育改革なのだろう。その他にマスコミ対策が必要だ。安倍首相は首相になる前から報道に口出しする人だった。首相になってからも口出しは止まらず、腑抜けの報道機関は今はもう彼が口出しするまでもなく彼の意向を忖度して自主規制。心あるニュースキャスターは次々に職を離れた。また、戦争には兵隊を確保する必要がある。政府は憲法9条を変えても徴兵制はないと言い続けている。彼らは徴兵制よりいいことを考えついたようだ。志願兵を増やせばいい。貧困層を増やして軍に志願せざるを得ない状況を作り出そうとしているようだ。一億総中流と言われて時代は遠くなった。
アメリカ留学中の体験である。当時、徴兵制で戦地に送られる学生が多い大学ではベトナム戦争反対運動がキャンパスを席巻していた。学生たちは、戦争に行きたい奴がゆけばいい。志願兵の軍隊にしろと叫んでいた。彼らは戦争に行きたい人などいない、志願制にすればベトナム戦争も維持できなくてすぐ終わるだろうと考えていた。ところが、政府はすんなりと志願制を実施した。結果、戦争に行くのは黒人やヒスパニックなど貧困層出身者が大多数となった。金持ちがしたい戦争を貧者が戦うということになってしまった。我が国の貧困層の創出と固定化は志願兵予備軍の確保という政策的な意味がありそうだ。子どもの貧困をなんとかせよという世論に対して申し訳のように始める給付型の奨学金も、留学生に対してはとおに実施されていた。給付額も留学生に対するものの方が大きいのだ。
着々と進められる戦争準備。今は戦前なのである。
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