遠友夜話20 秋近し

 昨年札幌でススキが穂を出したのを初めて見たのは8月4日だった。今年は8月3日。自然界は驚くほど正確に時を刻む。まだ8月になったばかりなのに、自然はすでに秋を予感しているのだ。近所の山裾のナナカマドの葉にも色づいたものが目立つようになってきた。ノシメトンボも飛んでいる。今朝のニュースで黒龍町からはひまわり満開の便り。今日の日差しはまだまだ暑い。しかし空を仰げば、なんと、うろこ雲が出ているではないか。そういえば数日前、朱鞠内湖の朝も一面のうろこ雲であった。秋が少しずつ自己主張してきているのだ。

 栄枯盛衰は世の習い。一強を誇った安倍政権もなにやら足元がおぼつかなくなってきた。内閣改造とやらで、賞味期限切れや腐った閣僚はお払い箱にされ、新たな面々が任についた。トップの疑惑をかばってお払い箱にされたお方はお気の毒様だ。しかし、嘘や隠し事や忖度や保身にまみれた政権をガラガラポンして見ても汚れは落ちそうにない。

 面白いことに、一強が揺らげば、物言わなかった連中がものを言い出すのだ。虎の威を借る狐が、親分の虎が弱ってきたら、親分との殉死は嫌だとばかり距離を置き始め、親分批判さえし出すのだ。狐の中にもいくつかのパターンがあり、スキあらば弱った親分をやっつけて自分が親分になろうと、虎視眈々と狙っているやつ。あるいは、鼻を効かせて次期親分は誰がなるかと様子を見て有望株に取り入ろうとするやつ。今の親分の勢力がまだ残っているうちに取り入ってある程度の地位を確保し、親分が弱ったらうまくスライドしてその地位からさらなる飛躍を狙うやつ。両天秤かけるやつ。ああ、猿の集団と同じだなあ。いや猿より醜いのが人間の世界か。一見盤石な一枚岩も、中身を見れば、有象無象の魑魅魍魎が蠢いている。人間界はおぞましい。

 歳のせいか、最近とみにこのおぞましい世界から逃れたいと思うようになってきた。癒してくれるのは自然界の季節の移ろいである。夏本番になったばかりの中に忍び寄る秋の気配。自然を愛でつつ人生の秋を迎える者にとっては、人の世のあれもこれも、どうでもよくなってきた。ただ、人の世の営みが、自然の中の動物や植物に危害を加えるのを黙って見ていて良いのかと問われれば、否と言わざるを得ない。私にとって、人の生き方としての「世のため人のため」が複雑な意味を持ち始めている。人は一体なにをしてきたのだろうか。人類が禁断の木の実を食し、叡智を獲得してからこのかた、人類がなしてきたことは自然の陵辱の連続であった。こんな人類が繁栄して良いのだろうか。その時の価値観でたとえ人のためにならざるとも、「自然の調和のため、地球のため」がわだかまりなく受け入れられる人の生き方なのではなかろうかなどと考える人生の秋ではある。(毒舌学者)

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