第4回(6/18)フォーラム講演「新渡戸稲造・内村鑑三とその弟子達」

新渡戸稲造・内村鑑三とその弟子達

 大山綱夫

 

 ただ今ご紹介頂きました大山です。きょうのタイトルは、ウイリアム・S・クラークについての名著、大島正健『クラーク先生とその弟子たち』(1937年)にならいました。その理由は「木はその実によって知られる」という聖書の言葉が示唆するように、人物の歴史的評価はその人自身の生涯によってだけでなく、後世への影響を踏まえることによって、より正確に豊かなものに近づくといえるからです。新渡戸稲造と内村鑑三。ふたりが日本近代史上の偉大な人物であったことは論を俟ちませんが、きょうは、ふたりから影響を受けた人々との関係、特に今まであまり詳しくは論じられなかった人々との関係を素描的に取り上げたいと思っています。ふたりの評価に役立たせて頂ければ幸いです。

 

 はじめに少し個人的なことを述べさせて頂きます。きょうの案内パンフレットにもありますように、私は1938(昭和13)年生まれであり、幼い日に空襲警報で逃げまわり、1945年8月15日に敗戦を告げるいわゆる玉音放送を聞いた世代です。家族の中からは戦死者も出ましたし、戦後の混乱期には貧乏や食糧難を経験した世代です。そののち復興期、経済成長期、高度成長期、そして現在に続く経済停滞期を生きてきました。幕末と明治維新後を生きた福沢諭吉が述べた「一身にして二生を経る」という言葉にならえば、この私が生きてきた77年間は「二生」を上回る種類の時代だったといっても過言でないように感じています。今から21年前、私は東京で働いておりましたが、その年の8月、かつて焼け野原だった街を歩いていたとき、並木の豊かな緑を見て、深い感慨を覚えました。その年は1995年。戦後50年目に当たっていました。戦火のない50年は、こういう豊かな街並みを可能にするのだ、戦後の日本国憲法のもとで、完全だったとは到底いえないながらも、社会をましなものにしようとする努力があったからこそ、この緑があり現在があるのだという感慨でした。日差しに手をかざしながら、暫くの間、緑と青空と白雲に見入っていました。昨年はその時から20年目に当たりました。私はこんどは全く違う気分で過ごしました。「再びの戦前ではないか」「危険だ」という気分でした。政治指導者のなかに戦前・戦中また敗戦直後の時代を経験した者がほとんどいなくなってしまったという事態と、そうした一連の時期の歴史に学んだとは思えない政治家や評論家の言動や、一部メディアの煽動的姿勢に大変危険なものを感じざるを得なかったのです。この気分は今も続いています。こういう時代だからこそ、ある意味では、もっと危険な時代を生きた新渡戸稲造や内村鑑三が目指し、次の世代へ伝えようとした精神姿勢を確認することは意味あることではないかと思い、小さな集いなどで語ってきていました。本日の講演も、そうした思いからお引き受けした次第です。

 

 本題に入ります。札幌農学校2期生新渡戸と内村とは生涯の友人同士であり、その働きのゆえにふたり共、高校の日本史、倫理、現代社会の教科書の中で取り上げられています。新渡戸に関していえば一時期5,000円札の顔にも使われましたので名前はかなり知られています。しかしふたりが何をしたのかについて若い人に聞いてみると、答えられる人はあまり多くはありません。高校の日本史の教科書によれば、新渡戸については大体次のように述べられています。「内村と共に札幌農学校でキリスト教に入信した教育者、『武士道』(1899年)を英文で発表して日本文化を紹介。京都大学教授・一高校長・東大教授・東京女子大初学長などを歴任。1920~1926年には国際連盟事務局次長として活躍した」。一方内村については、大体次のように述べられています。「宗教家、札幌農学校卒業後に渡米。帰国後の第一高等中学校嘱託教員のとき不敬事件で退職。その後『万朝報』に招かれ、日露戦争では非戦論をとなえ退職。日本的キリスト教の独立に努め、無教会主義をとなえた」。さらに内村の不敬事件については、「1891年、第一高等中学校嘱託教員の内村鑑三が、キリスト教徒の良心から天皇署名のある教育勅語に最敬礼をせず、世の攻撃を受け、辞職した事件」と解説されています。この会場にお越しのほとんどの方は、いま紹介致しましたような新渡戸と内村の略歴についてご存知であり、肉付けすべき事柄についてさえも、かなりのことを知っておられることと思いますが、きょうお話し致しますのは、一般にはあまり取り上げられて来なかった事柄です。

 さて、ふたりの札幌農学校入学前からの共通の友人で、しかも生涯にわたって親友であった宮部金吾は、あるとき内村を評して札幌農学校の「副産物」と呼びました。札幌農学校の主産物とは、いうまでもなく北海道の開拓や農業関係の指導者や教育者です。そうした意味では内村を主産物といえないというのです。しかしそうした意味では、新渡戸も開拓使と札幌農学校勤務時代は約7年であり、彼についての評価は今、紹介しました高校教科書の記載にあるように主に他の分野での仕事に基づいている訳ですから、彼もまた「副産物」と言ってもいいかも知れません。札幌農学校は、彼らの他に一期生では大島正健、下っては19期生の有島武郎や森本厚吉など著名な「副産物」的人物を数多く産み出しており、ここに札幌農学校が専門教育の他に持っていたリベラル・アーツ教育の実りを指摘できるともいえます。もちろん新渡戸にしても内村にしても、札幌農学校での教育だけでなく青年後期の留学経験、なかでもアメリカでの精神的経験、新渡戸の場合はクエーカーへの入信、内村の場合は贖罪(罪のゆるし)信仰への到達があって、生涯の人生指針が出来上がったことを落としてはなりません。その上で「副産物」として、大きな働きをしたのです。ふたりが札幌農学校を出発点に、留学期経験を経て、そののち選びとった、内村の場合には余儀なく追い込まれた生活を通して確立したあるいは体現した姿勢を構成したしたものを、あえて単純化・項目化してみれば、次のようにもまとめることができると思います。

・新渡戸稲造・・・

 「クエーカー信仰」、「神の種・内なる光」、「見えざる人々への配慮・敬意」、「女子教育」

 With malice toward none, with Charity for all (リンカーン)

・内村鑑三・・・

 「贖罪信仰」、「人の弱さの自覚」、「後世(の人々、自然)のためにという意識」

 I for Japan, Japan for the World,  The World for Christ, All for God

 

 ふたりはこうしたものを内実とする姿勢で大きな働きをしましたが、共通していえるのは若い世代への影響力の大きさです。新渡戸から影響を受けた人々、内村から影響を受けた人々、また両方から影響を受けた人々、それぞれ沢山いますが、特に最後のカテゴリー、つまり両方から影響を受けた人々の中から戦後日本の道筋をつけた人々が沢山輩出したことは、特筆されなくてはなりません。きょうはふたりから様々な形で影響を受けた個人や集団を取り上げ、最後にふたりの精神的・思想的姿勢を確認したいと思います。

 

 新渡戸の札幌農学校教授時代は1891(明治24)年から1898(明治31)年までの7年間でしたが、その間に影響を受け、生涯尊敬の念を持ち続け、またそれぞれの分野でよく知られた弟子たちの名の一部をパワーポイントに出しておきました。

 

札幌農学校と札幌の人々・・・高岡熊雄(北大総長)、半沢洵(北大教授、遠友夜学校代表)、小谷武治(北大予科教授、遠友夜学校代表)、森本厚吉(北大教授、遠友夜学校代表)、他

遠友夜学校(18941944)の人々・・・卒業生総数約1100人、ボランティア教員500人超

北星女学校の人々・・・河井道(北星女学校3期生、恵泉女学園長)、他

[女性教育としては東京時代に、安井てつ(東京女子大学監・学長)、上代たの(日本女子大学長)]

 

 この中で特に忘れてならないのは、固有名詞が世にほとんど知られていないけれども、新渡戸から直接・間接に影響を受け、彼のことを大切に思い、札幌で堅実な生活を送った一群の人々です。彼らも、新渡戸の弟子に数えられなくてはなりません。いうまでもなく遠友夜学校で学んだ人々です。ご存知のように新渡戸は1894(明治27)年、メアリー夫人のエルキントン家から送られてきた1,000ドルを基金にして豊平橋の近くに、貧しい家庭の子弟や苦学生のために、学費無料の、男女共学の学校を開きました。このお金は、孤児だった女性がエルキントン家で育てられ一生の間にたくわえた遺産だったそうですから、その由来を考えれば実にふさわしい用いられ方でした。この学校では新渡戸の志に共鳴した札幌農学校の教員や学生たちがボランティア教員として教え、敗戦の前年(1944(昭和19)年)まで続きました。遠友夜学校についてはすでに優れた本が何冊かでていますのでそちらをお読み下さい。仕事を終えたあと疲れていても、「学びたい、先生に会いたい」との思いから、夜道を、雪道を急ぐ生徒達。一方「自分を待っている生徒たちがいる」との思いから遠友夜学校へ向かう若い大学生教員たち。その人たちが残した記録を読むと本当に胸が熱くなります。新渡戸の、こうした日本にはなかった学校設立の着想は、欧米への留学経験と、信念的にはクエーカーの信仰姿勢から出てきたものと思われます。アメリカでは1880年代以降、大学での事業の一部を大学の壁の外にも拡張し、教育機会を多くの人々とも共有しようとするユニヴァーシティ・エクステンション(大学拡張運動)が始まっていましたし、また同じ頃イギリスではケンブリッジとオックスフォードの校友たちによるトインビー・ホールでの大学隣保館運動や、アメリカではジェーン・アダムスらによるハル・ハウスでのセツルメント運動が始まっていました。いずれも新渡戸の留学期です。新渡戸はキリスト教社会が生み出した、こうした動きに着目したのではないかと思われます。従来、日本では1920年代から30年代に活発だった社会主義・マルクス主義系の学生団体の東京帝国大学新人会が、1924年に開始し数年して消えたセツルメント運動が、学生によるセツルメントとしては最初だといわれてきましたが、遠友夜学校はそれよりも30年も早い1894年の設立であり、しかも50年も続いた訳ですから、日本近代の学生運動史や社会事業史の研究者は、遠友夜学校をしっかりと取り上げて、それらの歴史を書き直すべきではないかと、私は思っています。

 ご存知のように、この遠友夜学校で新渡戸が伝えたかった、あるいは作りたかった人格がありました。それはアメリカの第16代の大統領リンカーンに表れているような人格でした。新渡戸は1931(昭和6)年、札幌に来たとき、生徒たちに、学校へ来たら、このリンカーの写真を見なさいといい、リンカーンの話をし、英文でリンカーンの言葉を揮毫しました。「何人(ぴと)に対しても悪意を抱かず、すべての人に愛をもって」。この言葉は、実はリンカーンが南北戦争中、大統領として第2期を始めるときに行った就任演説の中で用いたものです。ということは「何人」あるいは「すべての人」は、南北戦争中の敵方、つまり南部の人々をも含めていると読まねばなりません。南北戦争勃発前の第1期目の就任演説にくらべれば7分の1くらいの短いものですが、全文を読むとリンカーンの全人格をかけての、キリスト者としての、真剣な、ある意味では痛みさえ伝わってくる演説です。戦争という現実のなかで平和の信仰を生きようとするキリスト者政治家としての苦悩に満ちた演説です。彼は戦争という「鞭」を速やかに去らせてほしいとの祈りをこの演説に加えました。彼はこの演説の2ヵ月後に暗殺されました。新渡戸のことですから、この短い演説全文と揮毫の言葉の前後関係を知っていたはずです。この札幌訪問の1931(昭和6)年という年、すでに日本の中国侵略は始まっていて、日米関係も難しくなっていた時期であり、元国際連盟事務局次長として、国際的にも名を知られ、また日本のスポークスマンのようにも見られていた身として、彼の祈りを託した言葉だったのではなかったでしょうか。新渡戸がこの2年後カナダで命を落とし、札幌に再びは戻ってこられなかったことを考えれば、このことばは遠友夜学校への遺言ともなりました。

 遠友夜学校にかかわったボランティア教員総数500人以上、卒業生総数約1100名、ここで織りなされた師弟関係や目ざされたものを思いますと、参加者の固有名詞が歴史に記されることは少ないかも知れないけれども、札幌のさらには近代日本の精神史上の大きな宝と言っても決して言いすぎではないでしょう。

 ところで時代は元に戻りますが、札幌農学校教授時代、新渡戸はアメリカ女性宣教師サラ・C・スミスが建てたミッションスクールを助け、そこで学んでいたひとりの女子生徒の才能を開花させ、女性教育者・平和主義者への道を備えました。河井道(日本YWCA初代総幹事。恵泉女学園創始者)です。パワーポイントの画面は2年前、宝島社が出版した『新しい代表的日本人』と題する本の表紙と該当頁ですが、明確な平和論を主張した女性として河井が取り上げられているのです。若い日の彼女の才能に目をとめた新渡戸が河井にアメリカの大学への道をひらき、1898年バンクーバーに到着した日のことを河井が自伝に書いていますが、これを読みますと、遠友夜学校に託したものと通底する新渡戸の思いが伝わってきます。読んでみます。

 

 「あなたをアメリカに連れてきたのは、ただ知識を高めるだけではない。もしそれが唯一の目的だとしたら、日本にいてもあなたが生涯かけて吸収しきれないほど学ぶことがある。ここでは、あなたの本当の教育は、本や大学の壁のそとにあるのです。それからもう一つは、多くの偉大な人物と接触するようになるでしょう。『日本には偉い人物はいないのですか?こんな遠くまで偉い人に会いにこなくてはいけないのですか』。わたしは愛国心が少し傷つけられてたずねた。『そう、日本にも偉い人物はいます。しかし祭り上げられています。ところがアメリカでは、台所に、学校に、人生のあらゆるありふれた路上でみつけられるのです。キリスト教の大きな働きの一つは、人格を、社会の階級にはかかわりなく、成長させることのです。日本では偉い人物というものを、地位の高い人とか、家柄のよい人とか、大学者だけの中に探す傾向があります。実にすばらしい人たちが、偶然この世的には低い身分にあるために、見落とされることがよくあるのです』。こうしてわたしの尊敬する先生は、この新しい都会での、わたしの最初の教訓を与えてくださった。これこそわたしがけっして忘れられない教訓である」。(『わたしのランターン』原文英文、1939年)

 

 ここには新渡戸が滞米時代に肌身に感じ呼吸したクエーカーのコミュニティやアメリカ北部を覆っていたプロテスタントのエートスが裏打ちされているのでしょう。無名であっても勤勉に誠実に生きる人間像がここにはあります。河井のことは、後でもう一度取り上げます。

 ここで話題を内村へ転じます。内村が不敬事件でこうむった嫌がらせや、脅迫は大変なものでした。一高の生徒たちが内村の家へ押しかけ、玄関脇の畳部屋に皆で小便をして帰ってゆく。言論界では国粋主義者から罵詈雑言を浴びせられる。インフルエンザに罹っていた内村を看病していた夫人が、内村の回復のあと同じ病で亡くなってしまう。実に日本中枕するところのない数年間を過ごします。短期間、京都に居たときのことですが、同志社に移っていた札幌農学校1期生の大島正健が、博覧会の看板書きのアルバイトに急ぐ内村を見かけ、一晩内村を呼んですき焼きを振る舞いました。鍋の中のすべてを食べた後、内村がこの汁も飲んでいいかと問い、「いい」と答えると、内村は鍋を両手で持って汁を飲みほしたと伝えられています。まさに貧窮底を突く時代でした。しかしこの時代にトランクを机の代りにしいくつかの作品を書きますが、いずれも信仰と人生に関する深い洞察の作品で、彼の代表作品の中に数えられるに至ります。そして不敬事件から3年後の1894(明治27)年箱根で行った「後世への最大遺物」という講演。この講演は、聴衆に感銘を与えたばかりでなく、さらに3年後の1897(明治30)年にこれが書籍化されると、多くの若者の心をとらえました。この内容については後でまた触れますが、私が感銘を受けるのはこの中に、彼が受けた苦難や不遇について何の恨みごとも書いてないことです。1897年、内村は東京に戻りますが、この頃から彼の講演や評論が人々を惹きつけるようになりました。青年のなかには、青山士(1899年末)や大賀一郎(1902年末)や天野貞祐(1907年末)らが数えられます。ご存知のように青山士はのちにパナマ運河開削工事に関わった唯一の日本人、大賀は戦後2000年昔のハスの種を開花させた植物学者、天野貞祐はのちのカント哲学者・京都大学教授・文部大臣になった人物です。内村はすでに学校の教員ではなくキリスト教伝道者であり、またその立場からの時事評論家でしたが、日露戦争に際しての非戦論や足尾鉱毒事件での田中正造らとの共同活動で、若者たちを惹きつけ始めたのです。いま挙げた人々のほかに、小山内薫(のちの劇作家)や、志賀直哉(のちの小説家)や、倉橋惣三(のちのフレーベル学者)らも、内村の集会出席するようになりました。ただ、彼らはそれぞれ個別の参加でした。

 ところが、1909(明治42)年第一高等学校の校長新渡戸稲造のもとで読書会を開いていた一高生たちが、新渡戸の紹介状をもって集団で内村の集会に入会しました。ある伝記作家が、この一団のことを「おそろしいほどの才能のかたまりといえる」と述べていますが、秀才のほまれ高い若者たちでした。一高のバッジにちなんで「柏会」と名づけられましたが、一方で、内村はこの一団を「まむしの卵」と呼んでいました。育て方によって、平和の鳩ではなく、猛毒のまむしになりかねないと、彼らの才能を見ぬいたうえで危惧をこめたユーモラスな命名です。画面はある日の柏会メンバーの写真ですが、この時は矢内原忠雄をはじめ何人かは、居合わせなかったようです。そもそもこの一団はなぜ新渡戸のもとでの読書会に集ったのか。柏会のメンバーのほとんどは、1880年代半ばの生まれであり、華厳の滝で投身自殺した藤村操や「時代閉塞の現状」を書いた石川啄木などと同世代でした。その2年後には南原繁をメンバーとする白雨会という集団も生まれました。柏会のひとり森戸辰男によれば、当時天下国家よりは人生や世界の意味について問う青年が増えていたといわれます。そういう時代に、伝統的な一高の校風は合わなくなってきた。かつては校長も人格者というより「校格者」「国格者」が重んじられていた。そこへ新渡戸が登場し、全く新たな雰囲気が生まれ、生徒たちが引き込まれていった。新渡戸は自著『武士道』の真意についても、それを理想とするよりも、そこにはない「人格」「教養」「社交性」を強調した、と森戸は述べています。そういう雰囲気の中で新渡戸を慕うたちに学生よる読書会が生まれた訳です。その会合では、宗教のことも論じられることがあり。宗教のことなら内村に聞くようにとの新渡戸のアドヴァイスもあって、集団で内村のところにやってきたのです。内村の影響は絶大で、このグループからキリスト教伝道者や聖書学者が何人も出ました。多くは卒業後官界や教育界に入りますが、国策の枠の中でも、良心的に生きようとしました。「まむし」になりませんでした。今回調べていて分かったのですが、例えば川西実三は昭和初期の農漁村の窮状解決のために内務省の役人として前田多門の協力も得て国民健康保険を立案した人物です。国民皆保険は戦後になってからですが、その源を作った人物です。官学での学者・教育者としての南原繁や矢内原忠雄については言を俟たないでしょう。

 内村は彼らに絶大な影響をあたえましたが、逆に社会人となった柏会や白雨会の人々から学ぶところもありました。彼らの多くは洋行しますが、官僚としての転任先からの、あるいは学者としての留学・研究先からの、あるいは帰国後の報告が内村の国際理解を助けたことです。柏会の金井清が革命数年後のソビエト・ロシアの視察報告をしていますが、その日の内村の日記には驚かされました。読んでみます。「労農露国は人類の歴史における未曾有の冒険的大試験である。たぶん遠からずして大失敗として終わるであろう。しかし一度はやって見る価値のある試験である。共産党の誠意に対しては尊敬を払わざるを得ない」。ここには人間の、価値ある試みへのひとつの敬意と共に、キリスト者として贖罪信仰に立つ内村の人間の業の限界への直感的判断が現われています。ご存知の通りソ連は、実験的な社会作りの一方で、多くの失敗を繰り返えし、金井の報告の65年後の1991(平成3)年に消滅しました。

 

 以下に内村のもとに集った人々を分類してみました。

『聖書之研究』(19001930、創刊3000部)、読者・聖書講義出席者(最大聴衆700名超)

 青山士(パナマ運河工事)、大賀一郎(ハス研究者)、天野貞祐(東大教授、文部大臣)志賀直哉、小山内薫、正宗白鳥(作家)、倉橋惣三(東京女子高等師範学校教授、フレーベル学者)、斉藤宗次郎(宮沢賢治「雨にも負けず」のモデルか)、大塚久雄(経済史学者)、鈴木弼美(基督教独立学校創立者)、ここに次の柏会・白雨会出身の人々も加わります。

柏会(新渡戸の読書会出席者、「まむしの卵」)

 黒木三次(1884-1944 帝都復興院参与)

 高木八尺(1889-1984 東大教授)

 森戸辰男(1888-1984 文部大臣)

 田中耕太郎(1890-1974 東大教授、文部大臣、最高裁長官)

 矢内原忠雄(1893-1961 東大総長)

 三谷隆正(1889-1944 一高教授)

 川西実三(1889-1978 内務省社会局保険部長、東京府知事、日赤社長)

 金井 清(1884-1966 諏訪市長)

 鶴見祐輔(1885-1973 作家、厚生大臣)

 岩永裕吉(1883-1939 同盟通信〈現在の共同通信と時事通信の前身〉社長)

 笠間杲雄(1885-1945 ポルトガル公使)

 田島道治(1885-1968 宮内庁長官)

 前田多門(1884-1962 文部大臣、日本育英会会長)

 澤田廉三(1888-1970 外務事務次官、国連大使)

 膳 桂之介(1887-1951 国務大臣)

 三谷隆信(1892-1985 フランス大使、宮内庁侍従長)

 塚本虎二(1885-1973 聖書学者、伝道者)

 黒崎幸吉(1886-1970 聖書学者、伝道者)

 藤井 武(1888-1930 伝道者)

 江原万里(1890-1933 伝道者)、他

 

白雨会・・・新渡戸校長時代の学生、および他学出身者

 南原 繁(1889-1974 東大総長)

 坂田 祐(1878-1969 日露戦争軍人、関東学院院長)

 高谷道男(1891-1994 東京高商〈現在の一橋大学〉卒、明治学院教授、ヘボン研究者)

 星野鉄雄(1890-1931 二高から東大医科大学、金沢医科大学教授)他

 

 参考 同期あるいは近接期生たち・・・芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、土屋文明、細川嘉

 六、泰 豊吉、倉田百三(「愛と認識との出発」)

 同世代人・・・石川啄木(1886-1912「時代閉塞の現状」1910)、藤村 操(1886-1903「厳頭之感」)

 

 内村は1930(昭和5)年に亡くなり、その翌年には満州事変が起こりました。これを軍部の独走とみた新渡戸は、四国松山でのオフレコの記者会見で「我が国を滅ぼすものとして共産党と軍閥とどちらが恐いか問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と発言しました。これがオフレコ破りで報道され、全国的な問題となり、ある新聞の社説には「新渡戸氏の自決を促す」とまで書かれました。状況は教育勅語不敬事件の時と似ていました。内村は職業人としての初期に、新渡戸は職業人の終わりの時期に、国賊・非国民視されるという共通の苦難をなめました。新渡戸は1933(昭和8)年にカナダで亡くなりました。

 ふたりの死後、日本は軍国主義の道を驀進しますが、ふたりの弟子たちは当然にも苦難を強いられました。1937(昭和12)年平和思想の論文のゆえに東大を追われた矢内原忠雄のケースは、典型的な出来事でした。これは言論・思想・学問の自由が脅かされた事件ですが、新渡戸・内村の弟子たちの中でキリスト伝道者となった他の者たちも似たような経験をしました。一方、日米関係が、さらに悪化したときには、戦争回避のために尽力した人たちの中に、ふたりの弟子たちがいました。官では東大教授でアメリカ政治史が専門だった高木八尺が近衛文麿とルーズベルトの会談実現を探り、駐日大使グルーに書簡を出しました。また民では河井道が、1941(昭16)年3月賀川豊彦らと計10人からなる訪米平和使節団にただ1人の女性として加わり、アメリカ各地で、戦争回避の訴えをしました。しかし、彼らの努力にも拘らず戦争回避はならず太平洋戦に突入しました。新渡戸・内村の弟子たちが迫害を受けたり、苦しんだことは言うまでもありません。そんな中で、河井道がとった行動と発言を紹介したいと思います。日米関係が極度に高まっていた1941(昭和16)年の春、河井は彼女が園長をつとめていた恵泉女学園の卒業礼拝の講師に、その3年前東大を追われ、国賊とか非国民と呼ばれていた矢内原忠雄を呼んだのです。緊張を伴う決断であったに違いありません。そしてその年の12月に真珠湾攻撃でした。さらに太平洋戦争が進んだ段階で、河井が恐らく人生で最大の勇気を払ったに違いない発言をしました。その時のことを、その場に居合わせた若い女性が記憶にとどめました。この女性は後に自分の出身校の青山学院大学の教授となった神山妙子です。彼女の証言を読んでみます。「河井道という強烈な個性が私の瞼に焼き付くことになるのは、太平洋戦争も後半に入ってからのことである。キリスト教を見る眼は、日に日に酷しさを増し、校門付近で私服の刑事から、「靖国神社の参拝についてどう思うか」と聞かれた生徒がいるという噂まで耳に入る頃、御殿場の東山荘で開かれた夏季学校に参加することになった。講師陣には当時のキリスト教会の錚々たるメンバーが名を列ねていたが、そうした社会情勢のもとでは当り障りのない話が大部分を占めるのもふしぎではなかったのかも知れない。最後に唯一人の女性のスピーカーとして立ち上がったのが河井先生だった。先生は開口一番『そもそもこの戦争はすべきではなかったのです』と断言した。場内は水をうったように静まり返り、それまでの沈滞ムードは消し飛んだ。次の瞬間、私は烈しい恐怖に襲われた。廊下で立ち聞きをしていた憲兵が、扉を蹴立てて踏み込んでくるような錯覚を覚えたからだ。しかし壇上の先生は、自らの信念を語る人のみがもつ落着きと、凛とした態度を最後まで崩すことはなかった」(『証言集 河井道―人・信仰・教育』、2000年)。神山は、河井が落ち着いていたと記るしていますが、私はむしろ河井は厳しい緊張の中にあったのではないかと想像します。河井は幸いにも憲兵に捕まることはなかったけれども、身柄拘束に相当する出来事でした。戦時中の新渡戸や内村の弟子たちの苦難は、他にも沢山の事例がありますが、この苦難が孫弟子たちにも及んでいたことも紹介しておきます。パワーポイント画面にある渡部良三氏の『小さな抵抗』という岩波文庫本です。渡部氏は内村鑑三の弟子の鈴木弼美(山形県キリスト教独立学園創始者)の弟子ともいえる関係にある方ですが、戦争中、中国人捕虜を突き刺して殺せという上官の命令に抗して、その命令を拒んだため、凄絶なリンチにあった方です。その経験を歌に託した方です。一読に値する本です。

 戦後のことに触れます。戦後新渡戸・内村の弟子たちは、職場に復帰し、新しい日本国憲法のもとで、新しい国づくりのためにさまざまな場所で用いられました。教育基本法や教育制度策定のために教育刷新委員会が発足しましたが、そのメンバーのかなりの人々が、何らかの形で新渡戸・内村の影響を受けた人々でした。南原繁、天野貞祐ら、女性では河井道が名を連らねていました。象徴的だったのは戦後の東大の総長が2代続いて新渡戸・内村の弟子だったことです。当時の南原繁と矢内原の言動を振り返えると、私はなぜか当時盛んだった植樹運動(それは現在でも「緑の日」につながっているものです)や映画「青い山脈」を一緒に思い出します。石坂洋次郎の「青い山脈」は何度か映画化されていますが、一番古い版の池部良や原節子が出演している1949年版です。その一枚のスチール写真が当時の雰囲気をよみがえらせてくれます。初夏の青空の広がる土手の上、横一列に並んで自転車を押し、前方を眺めているショットです。簡素なシャツやブラウスの白さが目に沁みます。敗戦の焼野原のなかで手にした民主主義、復興を始めたばかりの社会、戦争のない社会への願いそうした思いのつまった映画です。内村や新渡戸の弟子たちはそういう時代に、大切な役割を果たしていたのです。札幌でも遠友夜学校の卒業生たちが、堅実な生活を通して新しい社会作りのために汗を流していた時期だったのではないかと思うのです。

 最後に新渡戸と内村が残した文章のなかからいくつかを紹介し、訴えようとしたことを確認したいと思います。きょう紹介した人々は、こうした訴えを自らのものとして生きた証人だったと私は受けとめています。

 

 第1は新渡戸のもの。民族や国の違いを超えて、目指すべき普遍的な価値があることを示唆しています。

 「私のいはんとすることは、民族の成立ちとか、種族の性質などに関係なく、すべて人類生きとし生けるものには、みんな共通の何物かがあり、レーシアル・キャラクターなどといはれないようなものが、必ずあらうと思ふのである」(新渡戸稲造『西洋の事情と思想』1934)。

 

 第2は内村のもの。異なる信仰(信念とか価値観)に対する寛容の必要を訴えています。

 「真の意味の寛大とは、自分自身の信仰には不動の確信をいだきつつ、しかもすべての正直な信仰を容れ、かつ忍ぶことであると思う。自分がある真理を知りうることを信じ、同時に自分があらゆる真理を知り得ないことを信ずるのが、キリスト教的寛大の基礎であり、また人類に対するすべての善意と平和的行動と源泉である」(内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』(原文『How I Became a Christian』1893 )。

 

 第3は内村のもの。新渡戸はクエーカーとして平和主義に立っていましたが、文章で戦争と平和について明示的に書いたものは見あたりません。しかし日本人として、戦争や平和をどうとらえるかはこの内村の文章と共通すると思われます。

 「私の愛国心は軍国主義を以て現はれない。所謂国利民福は多くの場合に於て私の愛国心に訴へない。(中略)私は日本を正義に於て世界第一の国と成さんと欲する。(中略)日本の為に日本を愛するに非ずして、義の為に日本を愛するのであると言ふならば多くの日本人は怒り或は笑ふであらう。然し乍ら此愛国心のみが永久に国を益し世界を益する愛国心であると信ずる」(内村鑑三「私の愛国心に就いて」1926)。

 

 第4は、新渡戸の弟子でありクエーカーのこともよく知り、内村のものを読んでいた河井道の実感的な非戦論です。注目していただきたいのは書かれたのが第一次大戦の最中だったことです。日本が漁夫の利を得ようと参加した戦争への批判です。また女性の参政権のなかった時代だったことにも注目してください。

 「私は絶対に戦いは嫌いで、何誰の前でも主張するので御座います。ですから今度の戦争に就いても、実に忌わしく思っているので御座います。多くの国を騒がせ、多くの人命を絶ち、人類に苦を与えて、何がよいのでありましょう、私は馬鹿な事と思います。ですから私は戦時の婦人だからと言って武を奨励したり、又子供に戦争の真似をさせたり、武器の玩具を与えたりする事は、どうぞ止めたい、子供の時から戦争の悪い事を充分解らせたいと思います。私共が人道に重きを置いて考えれば、戦争なんかしておられないではありませんか。私は兵士の中からも自分は戦いはせぬと、飽く迄主張し主義の為に死するも厭わぬと言うような人があればと思う位でございます。私は今度の戦いに就いても誠にいやな思いを致します。英国は弱い、仏国は弱い、独逸は強い、露国は強いなど言いますが、畢竟強いと言われる国は、弱いと言われる国よりも野蛮だと言ってもよい、常識の発達した国民は真面目に戦ってなどいられないでしょう。ですから弱い国は、却て進歩している。日本は強いと言われれば、まだ進んでいないのだと、私は思います。ああ戦いはいやでございます」(河井道「私は戦いは嫌い」『新世界』1914年10月号)。

 

 最後に、新渡戸・内村に共通する、志と生き方―後世への責任感―を分かりやすい言葉で書いた内村の『後世への最大遺物』です。

 昔、岩波書店が、当時の知識人や各界のリーダーたちに自分にとって最も大切な岩波文庫3冊を挙げさせるアンケートをしたところ、多くの人が挙げたのが『後世への最大遺物』でした。政治学者の石田雄氏は「日本的業績主義」への批判の書として評価していました。卒業式で歌う「仰げば尊し」には、「身を立て、名を挙げ」とありますが、これは成功にだけ価値を置いています。ですから、失敗者は行き場所がない。これに対して『後世への最大遺物』は、それを問わず、内村は、真面目に生きることこそ、立身出世を超えたものに向かって生きることこそ、というのです。新渡戸や河井にも共通するものと思います。

 「われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である。ちょうど大学校にはいる前の予備校である。もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。(中略)しかしながら私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらにわたしが何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである(中略。良い目的のためにお金を稼ぐこと、役に立つ事業を興すこと、立派な思想を残すことを挙げ、それらは誰にでも出来るものではないと解説したあと)私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。(中略)われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞという覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います」(内村鑑三『後世への最大遺物』(1894年7月、キリスト教徒夏期学校での講演)。

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