遠友夜話2

 前回、「学問のすゝめ」と「学問より実行」と題して、福沢諭吉と新渡戸稲造の「学問」の捉え方の違いについて書いた。「学問のすゝめ」では、人は生まれて来た時は平等なのに、貴賤貧富の差が生じるのは学問の有無による。貧困に陥らないために、立身出世するために学問をすすめるのであるが、格差をなくすために貧者の教育を行おうという発想は無い。「学問のすゝめ」にはもっともなことも沢山書いてあり、これだけではそこまで読み取れないが、福沢の他の著作を読むと、社会の下層階級の人々には冷淡で、彼らに教育を施すことを危険視していることが分かる。福沢は平等主義者ではないのだ。福沢の軸足はあくまで社会の上層部におかれている。

 これに対し、貧しい子供たちの教育に手を差し伸べた新渡戸の「学問より実行」では、人格の完成のために学問せよと説く。福沢は立身出世のための学問、悪く云えば、金儲けのための学問。新渡戸は人格の完成のための修養としての学問。両者には軸足の置き所と学問に対する考え方に明確な違いがある。このことは彼らの様々な主張や行動の違いに反映されているように思える。

 例えば、「学問のすゝめ」の中にこんな記述がある。「されば今、かかる実なき学問(文学など)はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。」現政権の文系学科縮小の政策や、教養教育の縮小策を思い出させるが、人間を作る教育であるリベラルアーツ教育を軽視する風潮は福沢以来の我が国の悪風である。「Doingの前にBeing」、「to do よりもto be」、「専門センスよりもコモンセンス」など、如何にやるかを身につける先に如何にあるべきかを身につけよ、専門的技術の習得より常識を身につけることが第一だと説く新渡戸とは対極にある。「神無き知育は知恵ある悪魔を育てる」とは西洋のことわざであるが、徳育無き専門教育が人類のみならず地球に恐ろしい悪影響をもたらす可能性はある。

 福沢は国際競争力をしきりに云うが、どのようなことで日本を世界に印象づけたかったかと云えば、国の経済力と武力で、そのためには国内のあらゆることは後回し、まず富国強兵であるとする。これに対し、新渡戸は「武士道」の著作でも分かるように、日本人の精神性が高潔であることを世界に示したかった。だからこそ彼の教育論は人格の完成を第一の目的とする。新渡戸は日本人の精神性を世界に発信し、福沢は西洋文明を日本が如何に取り入れ強くなったかを示そうとした。だから、世界の彼らに対する認識もそのようになった。新渡戸は今も世界中から尊敬され、福沢は欧米では彼を知る人は無く、知ったとしても鹿鳴館と同じような軽蔑の対象となるだろう。アジアからは敵視されている。(毒舌学者)

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